「フィルムが要らんというのがわからんよ」──写真の“当たり前”が変わってしまった時代にて

暮らしの気づき帖

【おそらく、そこには微笑まずにはいられない事実があった】

「写真を撮ったのはいいけど、どこ行ったんじゃろかね」

そんなことを言う父母を目の前にして、僕はひそかに驚いを覚えた。

いま、写真を撮るのは簡単だ。 スマホでパチリ。私たちはもう「36枚のフィルム」なんて限界もなく、ただの数千枚をカシャカシャ撮り続ける。

しかし、その写真はどこに行ったのか。


【「撮ること」と「残すこと」は、同じじゃなくなった】

写真を撮ることは、旧くは「手間と金をかけて残す」ことだった。

フィルムを買い、写真専門店で現像し、返ってきた写真を手に、アルバムに振り切ってペタペタと貼る。

1枚1枚が、「必要なシーンだけを選んで撮った絵」だった。

かつてのフィルム時代、24枚撮り・36枚撮りという枚数制限があったからこそ、1枚1枚が大切な瞬間だった。 しかも、フィルムはタダじゃない。撮る前に「これは本当に撮るべきか?」と考える時間が、思い出をより価値あるものにしていた。

好きな人は、現像にまでこだわった。 プロでなくとも、暗室でプリントして、光の当て方や色合いにこだわっていた人もいた。 あれは、ただ「写真を残す」というより、「思い出を育てる」行為だったのかもしれない。

しかし今、写真は撮るけど、残らない。 その残らなさが、父母にとっては驚異なのだろう。


【「撮った写真がない」というジレンマ、その実態】

父母に言わせると、

「写真は撮るだけではない。実物として手に残らんと、写真とは言わん」

きっとそんな思いがあるんだろう。

手元にない写真、見返せない写真は、もはや「撮った」というより、「通過した」に近い。

不思議なことに、写真が残らない時代になった。


【最後に、ちょっと考えてみよう】

どんなに技術が進化しても、思い出を「残したい」気持ちは変わらない。

ただ、残し方がわからなくなっただけ。

写真を残すこと、選ぶこと、見返すこと。

それらを意識的にやっていくことが、今の時代にはなにより大切な「思い出の管理」なのかもしれないね。


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